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旨い酒と苦い酒~社員除名裁判

日本酒が美味しい季節になりました。庭の紅葉を眺めながら、深まりゆく秋とともに香り高いお酒を堪能するなんて至福の時ですね。しかし、旨い酒もあれば、苦い酒もあるもの。今日は老舗の造り酒屋をめぐるお話です。
 雪深い山間(やまあい)の町に、軽子酒造という酒蔵があります。軽子酒造は先々代の山城仁左衛門(初代)が創業し、家督相続をした二代目仁左衛門が事業を拡大しました。二代目の死後、その長男の山城武郎が酒蔵やその敷地を相続しましたが、当時、武郎は16歳。酒蔵を経営していく力はありませんでした。
 二代目の四十九日が済んだ頃、武郎の4人の叔父たちのうち3人が自宅にやってきました。そして、武郎とその母親を取り囲み、強い口調でこう言いました。
 「武ちゃん、軽子酒造を合名会社にすることにした。それには酒蔵と敷地を出資してもらわなくちゃなんねえ。武ちゃんも社員にしてやるけど、俺たちが会社をやってくから。ミネさんも、いいよな。」
 武郎の母親ミネは、震える手で黙って書類にハンコをおしました。武郎は、叔父たちの有無を言わさない圧力に恐怖心を抱くとともに、父から受け継いだ酒蔵を奪われて屈辱的だったと、後に述懐しています。
 こうして軽子酒造の実権は叔父たちに移る一方、武郎は悔しさをバネにして猛烈に勉強し、東京大学法学部に入学。そして難関の司法試験に合格し、検事になりました。
 その後、会社を主導した3人の叔父たちは亡くなり、最も若かった叔父の井口慎之助が受け継いで、いつしか会社の社員は武郎と慎之助の二人だけになりました。
 ここから武郎は反撃を開始します。社員総会には出席しない一方、慎之助の経営にことごとく反対して妨害しました。時々故郷に戻っては、従業員を怒鳴りつけるなど、嫌がらせも繰り返しました。そして、検事を辞職した後、軽子酒造の解散を求める裁判闘争に踏み切ります。武郎としては、自分を辱めたこの会社自体を抹殺してしまいたいと思ったのでしょう。この裁判は実に8年余も続き、武郎の敗訴に終わりました。
 慎之助に目を転じますと、彼は他の叔父たちと異なり、会社の設立には関わっていませんでした。従って、武郎の悔しさなど理解できるはずもなく、会社を守ることに全力を挙げつつ、武郎に対する憎しみを強めていきました。
 解散訴訟で勝利した慎之助は逆襲に出ます。武郎を相手取って、社員除名の裁判を始めたのでした。法律では、社員が重要な義務を尽くさない場合、裁判所にその社員の除名を求めることができるとされています。武郎は不当な裁判だと争いましたが、確かに武郎は社員総会にもほとんど出席していませんし、会社の解散まで求めたのですから、除名はやむを得ない。裁判所はそう判断して、武郎は軽子酒造合名会社の社員としての地位を失うに至りました。
 こうして軽子酒造は存続し、今でも銘酒を世に出し続けています。ふくよかな味のなかにわずかな苦みを感じたら、それは酒蔵の歴史の澱(おり)かもしれません(山形地方裁判所酒田支部平成3年12月17日判決。文中仮名。若干脚色してあります)。