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勝手に出された離婚届~離婚無効訴訟

 東北の寒村で生まれた貞子は、戦前の女学校裁縫科を卒業し、呉服問屋に務めていたところ、同僚の次郎と出会いました。ふたりは親族だけの簡単な披露の席を設けただけで、今の東京都大田区馬込の地で同棲生活を始めました。
 夫婦仲は悪くなかったものの、次郎は貞子側の親族と反りが合わなかったようで、貞子に対し、しきりに親族の縁を切るよう求めました。しかし、貞子は友達が少なかったことから、夫の目を気にしながらも親族と交流を続けました。同棲を始めて2年が経過した頃、次郎は失職し、無線通信士の資格を取るため講習所に入学しましたが、その間も、貞子は女学校の嘱託教員として和裁を教えるなどして家計を支えました。次郎がめでたく無線通信士試験に合格し、タンカーの船員の職を得た頃、次郎の母タミが同居するようになります。
 ここまでくれば当然正式に婚姻届をして名実ともに夫婦になるのではと思うのですが、次郎は貞子の親族と折り合いが悪く消極的でした。一方の貞子は婚姻を希望したものの、遠慮しがちな性格で、強くは言えなかったようです。姑のタミも、その点は冷淡でした。子が生まれなければ、正式な嫁と認めないという考えもあったのかもしれません。
 戦争が激しさを増し、学徒出陣の壮行会が盛大に開催された昭和18年秋、貞子はようやく待望の長女を出産しました。こうなりますと、姑のタミも次郎を説得する側に回ります。「早く婚姻届を出しなさい。さもないと、子が庶子になってしまい、かわいそうだ」。しかし、次郎は首を縦に振らないまま海上勤務に。ここでタミは強硬手段に出ます。何と、次郎には内緒で、その兄・太郎に「次郎」名で署名捺印させて、勝手に婚姻届を出してしまったのです。
 自宅に戻り事情を知った次郎は、当然、母に文句を言いましたが、謝る母に対しそれ以上の対応はとりませんでした。そのうち次郎は再び海上勤務に。ところがフィリピン沖で米軍の攻撃に遭い船は沈没。次郎は九死に一生を得て台湾の高尾にたどりつきます。そして、そこで出会った若い看護師・早百合と恋に落ちました。
 帰国してからの次郎の貞子に対する仕打ちと言ったら・・・。貞子に暴力を振るって東北の実家に追い返し、長女は取り上げ、生活費も送りませんでした。次郎の姪から早百合の存在を知った貞子は、次郎に対し、何とか早百合と別れてほしいと懇願しますが、かえって離婚を突きつけられてしまいます。戦争は終わりましたが、夫婦の戦争は膠着状態。次郎はしつこく貞子に離婚を迫り、離婚訴訟も起こしました(途中で取下げ)。
 決して応じようとしない貞子に対し、次郎がとった措置は、ある意味で婚姻届の逆バージョン。つまり、離婚届を偽造してしまうという策でした。そのわずか1週間後に早百合との婚姻届を提出します。一方、貞子は偶々税務署から送付された書類に自分の旧姓が書かれていたことから、勝手に離婚されていたことに気づきます。ちなみに、昭和51年より前は、婚姻中の姓を離婚後にも称することは認められていなかっため、自動的に旧姓に戻っていたのでした。貞子は意を決して、①自身と次郎との離婚無効、②次郎と早百合との婚姻取消を求めて訴訟を起こしました。
 離婚届は次郎が勝手に出したもので無効ですし、離婚が無効になれば早百合との結婚は重婚になりますので、取り消されます。つまりは次郎に勝ち目はなし・・・。と思いきや、次郎はこう主張しました。「そもそも私と貞子の婚姻届も母親が勝手に出したものだから無効だ。それに、すでに貞子との夫婦関係は破綻していて、双方とも元に戻るつもりがないのだから、貞子には離婚無効を主張する利益がない」。
 裁判所は、次郎と貞子の婚姻届は確かに勝手に出されたものだが、次郎は黙示の追認をしていたと認定。さらに、「貞子は、次郎によって痛めつけられ、実質上の婚姻関係を奪われたのであって、婚姻の実質がなくなっていることを理由に、虚偽の離婚届とそれに引き続く早百合との事実上の婚姻を正当化されることは、女性の尊厳のためにも到底許しがたい」と述べて、全面的に貞子の主張を認めました。
 「次郎が、母タミが勝手になした婚姻届を追認していた」という認定は、次郎は届出に気づいてから半年足らずで再び海上勤務に行かざるを得なかったこと、戦争も激しくなっていた時期であることなどを考えると、ちょっと次郎に厳しいようにも思われます。次郎からすれば、「勝手に婚姻届を出されたのだから、勝手に離婚届を出してやったまで」ということかもしれません。ただ、貞子の苦難の半生を考えると、裁判官も次郎の言い分を認めるわけにはいかなかったのでしょうね(横浜地方裁判所昭和51年7月23日判決)。