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お前は強すぎる女~口頭による死因贈与契約

火の国・熊本で製本業を営む夫婦のお話です。

家業の製本業を受け継いだボンボンの貴昭と、今で言う「バツイチ」だった滋子が所帯をもったのは昭和の初め頃でした。貴昭は基本的に穏やかな性格で、よい技術を持っていましたが、一方で経営的な才覚には乏しく、どうしても遊び優先の生活になっていました。そのため5~6人いた従業員の給与を支払うと、手許に残る夫婦の生活費はギリギリでした。
一方、滋子は「二度目の結婚は失敗できない」と、並々ならぬ覚悟をもって嫁に来たようでした。いよいよ経営が厳しくなると従業員に辞めてもらい、自ら炊事洗濯など家事をこなす傍ら、製本作業や帳簿つけも行い、毎晩日づけが変わる頃まで働きました。取引先との外交は社長の貴昭に願わざるを得ませんでしたが、のんびり屋の貴昭のお尻をたたいて、何とか外回りをさせるというのが実情でした。
結婚まもない頃ですが、滋子は貴昭に多額の借金があり、熊本市内の自宅も抵当に入っていることを知ります。毎月の金利を示しつつ、貴昭に「どうするのよ」と迫りますが、貴昭は意に介さぬ風情。滋子は紋付三枚、丸帯二本、純金の指輪など嫁入り道具を売って利息を払い、さらに実家の兄に頼んで当時1,000円という大金を融通してもらい返済。抵当流れを食い止めました。


さて、貴昭と滋子は子に恵まれないまま、昭和50年になって貴昭が先立ちます。すると疎遠だった貴昭の妹・克子が登場し、滋子に対し貴昭の遺産の3分の1を要求しました(注)。克子からすれば、法律の定める相続分に従い遺産の一部をもらうのは当然の権利というわけです。
困った滋子は、「そういえば…。」と思い出しました。晩年、滋子が貴昭に対し、「自宅は私が守ったのだから、名義を私に変えてちょうだい。」と求めたところ、貴昭は、「お前の言うとおり、この自宅はお前のものだ。だが、お前は強すぎる女だ。名義だけでも俺に残しておかないと、主人であっても俺を追い出しかねない。近所の手前もあるので、名義だけは俺のままにしておいてくれ。」と、半分哀願するような口調で言ったというのです。今の時代から見れば、思わず吹き出すような発言ですが、昭和40年代ですのでご容赦を。ところで、滋子はこの会話をもって、口頭による死因贈与契約が成立し、貴昭の死亡により自宅は私が受け取ったものだから、遺産分割の対象にならないと主張しました。


死因贈与契約とは、「自分が死んだら、これこれの財産を与える」という契約です。遺言ほど形式がかっちり定まっているわけではないとはいえ、「口頭」での、しかも第三者も聞いていない夫婦間の日常会話を根拠に、はたして死因贈与契約なんて認められるのでしょうか。はい、認めたんです。裁判所は滋子の長年にわたる貢献を丁寧に認定し、そのような背景事情を踏まえると、貴昭には滋子に自宅を贈与する確定的な意思があったものと判断したのでした。驚きですが、事案としては妥当な解決だったように思われますね。
思えば、裁判官としては、何も面倒な事実認定などせず、あっさりと死因贈与契約を否定したうえで、3分の1を克子に渡すよう命ずることもできたはずです。でも、あえて楽な道を選ばなかったのは、裁判官がそれでは正義に反すると感じたのでしょう。人としての裁判官の情が垣間見られる事案でした(熊本家庭裁判所昭和54年7月11日審判。文中仮名)。

(注)現在の民法では、配偶者と兄弟姉妹が相続人の場合、配偶者が4分の3を、兄弟姉妹が4分の1を各々相続することになっていますが、昭和55年の法改正前は配偶者が3分の2を、兄弟姉妹が3分の1を相続するものとされていました。