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戸籍の「汚れ」~この子どこの子?

「おたくのご主人、なかなか大したものざますね。隠し子を堂々と戸籍に入れるなんて」。ご近所の有力マダム、鈴木さんに婦人会の場で皮肉たっぷりに言われ、山田花子さんは血の気が引く思いでした。昭和40年代の荒川区での出来事です。

夫の太郎さんは近隣では名の知れた実業家で、子どもには恵まれなかったものの、愛妻の花子さんと仲良く暮らしていました。しかし、その日の花子さんは当然ながら穏やかでなく、帰宅した太郎さんに開口一番ぶちまけました。

「あなた、私の知らない隠し子を入籍させたって、本当ですの?」 太郎さんは「え? 何を言ってるんだ?」と怪訝な様子。花子さんは涙ながらに、「だって、ご近所はこの噂で持ちきりですわよ。前町内会長の鈴木夫人に言われましたの。あなたは大したものだって」と訴えます。

「あり得ないよ。じゃあ、明日、戸籍を取り寄せて、何も書かれていないことを確かめよう」と太郎さん。「もし、子どもが書かれていたら、もう実家に帰らせていただきますわよ」と花子さん。「馬鹿馬鹿しい。さあ、風呂に入って寝るぞ」と太郎さん。もちろん、何も書かれていないはずでした。だって、太郎さんは結婚以来、戸籍の届出などしたことがありませんでしたから。

ところが、翌日、戸籍謄本を見てみると、全く知らない子どもが書かれているではありませんか。「山田海子。生年月日・昭和43年1月9日。父・山田太郎、母・山田花子。続柄・長女」。太郎さんは思わず花子さんの顔を見ましたが、頬は紅潮し、目の奥には炎が見えました。

 

どうしてこんなことになったのでしょう。簡単に言えば、戸籍係のミスでした。昭和43年1月9日、荒川区西日暮里8丁目1番2号に住む同姓同名の山田太郎さんに待望の次女が生まれました。16日、太郎さんは「海子」と名付けて荒川区役所に出生届を提出したのですが、その際、間違って西日暮里10丁目1番2号と記載してしまいました。「丁目」を間違ってしまったのです。

受理した戸籍係が調べてみましたが、西日暮里10丁目1番2号に山田太郎さんの住民登録は見当たりません。そこでさらに調べてみると、東日暮里10丁目2番1号に山田太郎さんという人が住民登録をしていました。戸籍係は「ははあ、この人だな」と誤信し、東日暮里10丁目2番1号の山田太郎さんの戸籍に記載したのですが、これが実業家の山田太郎さんだったのでした。

その後、戸籍係は誤りを指摘され、二重線で子どもの記載を消したのですが、戸籍を汚されたと怒った太郎さんは荒川区を相手取って慰謝料と荒川区報への謝罪広告を求めて訴訟を提起しました。裁判のなかでは戸籍係のずさんな対応が明るみに。出生届の母欄は「山田玲子」と書かれていたし、続柄も長女ではなく次女と書かれていました。にもかかわらず、戸籍係は勝手に母を「山田花子」と記載し、続柄も「長女」に直したというのですから、戸籍係の過失は争いようがありませんでした。

一方、太郎さんの主張した近所の噂については、裁判所は認めませんでした。噂の立証って難しいのですね。ただ、「この誤記載が、知らぬ間に他人の子を自己の子として入籍された原告に精神的苦痛を与えたであろうことは十分に察せられ、これは荒川区職員が謝罪しただけで消えるものではない」として、荒川区に対して金10万円の慰謝料を支払うよう命じました。当時の大卒初任給が約6万円とのことですので、今の価値だと金30万円くらいでしょうか。

戸籍の「汚れ」がテーマになった事件でしたが、判決も指摘しているとおり、関係人が申し出れば、戸籍を完全に再製して誤記部分を消し去ることができますので、太郎さんももう少し冷静になればよかったかもしれませんね。結局、太郎さんと花子さんの夫婦仲がどうなったのか・・・。判決のどこにも書かれていませんでした(東京地方裁判所昭和48年8月20日判決。氏名や住所を含め脚色してあります)。