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ウィーンから帰国する旅費~交通事故の賠償の範囲

蝉のうるさい真夏の朝、通子さんは自家用車で駅に向かっていました。交差点に差し掛かり、右折しようとして交差点の中心あたりに停車していました。そこへ、甲乙産業の軽トラックが速度オーバーで対向車線から突っ込んできて衝突。通子さんの記憶が戻ったのは、救急搬送された総合病院に入院してから1週間後のことでした。
事故というものは悪いタイミングで起こるもの。実は、通子さんの一人娘である小百合さんは、ちょうど前日夜、ウィーンに向けて旅立ったところでした。小百合さんはバイオリニストを目指していて、ウィーンの音楽大学に留学するところでした。
ウィーンのホテルに到着すると同時に、小百合さんは母親の交通事故を知り、仰天しました。父親は数年前に亡くなっていましたし、他に近しい親族はいません。小百合さんは迷いましたが、やはり自分が帰国して母親の看病をするほかないと決心し、翌日には帰国の途につきました。
通子さんは脳挫傷で重傷でしたが、小百合さんの献身的な介護もあって期待以上に回復し、3か月後にはほとんど後遺症もなく退院することができました。

その後、加害者である甲乙産業との示談交渉が始まりましたが、問題になったのは小百合さんの帰国費用と再度の渡航費用でした。もちろん、事故さえなければ小百合さんは帰国する必要はなく、帰国費用と再度の渡航費用を支出する必要はなかったはずでした。
一方、甲乙産業からしますと、第一に、娘さんが帰国しようがしまいが、通子さんはきちんとした医療的ケアを受けられたわけですから、そもそも帰国する必要はなかったはず。第二に、交通事故を起こして被害者の治療費を払うのは仕方がないとしても、娘さんが海外に行っているなんてレア・ケースだし、そんなところまで賠償させられるのは行き過ぎ。第三に、仮に賠償しなければならないとしても、娘さんに賠償するならわかるけど、なぜ通子さんに賠償しなければならないのかわからない、ということで、争いました。
小百合さんの帰国費用と再渡航費用。皆さまであれば、賠償してあげるべきとお考えでしょうか。

この点、昭和43年に発生した類似の交通事故について、最高裁判所は、「近親者が被害者の看護のために被害者のところに駆けつける必要があって、そのために旅費を支出した場合、その近親者が看護のために被害者のところに駆けつけるのが、被害者の傷害の程度、その近親者が看護に当たることに必要性などの事情に鑑みて、社会通念上相当であるときは、通常の旅費についても賠償すべきだ」と判示して、旅費の賠償を命じました。
甲乙産業の「ええっ、娘さんが海外に行っているなんて予想できないよ」という声に対して、最高裁判所は、国際交流が発達した現在、やはり賠償させるのが妥当と言いました。昭和43年の時点でそうなのですから、今であれば何の疑問もないということでしょう。
「損害があるとしても、母親の通子さんではなく、小百合さんでは?」という疑問については、最高裁判所は「その旅費は、被害者が近親者に対し返還または償還すべきもの」と言いました。つまり、旅費を支払ったのが小百合さんであっても、介護してもらった通子さんが小百合さんに返すのが相当と考えられ、そうであれば通子さんに発生した損害と考えるべき、という理屈のようでした。

事故によって発生した損害を、いったいどこまで賠償すればよいのか。この点は法律論としてもなかなか難しいところなのですが、この最高裁判所の考え方は今でも実務の指針になっています(最高裁判所昭和49年4月25日判決。なお、判決の表現は読みやすいように修正しています)。